お待たせしました。履歴書2をおおくり致します。⼩学校4年⽣の新学期から鎌倉に引っ越しました。鎌倉といっても⼋幡宮などのある鎌倉中⼼部ではなく、藤沢との境、⽚瀬江の島の近くです。当時は東京に住むサラリーマンが、通勤時間や満員電⾞をものともせず、家族のためにと⼀⼾建てを求めることがブームとなっており、鎌倉近郊の⼭の多くが削られて新興住宅地に変貌していました。私の⽗も御多分にもれずにその流⾏にのり、⾃分が後に腰痛で通勤が⼤変になるとは予想だにせず、⼩⾼い丘の上に広がった分譲地の⼀画を無理して購⼊して我々家族のために家を建ててくれたのでした。今はこの住宅地もかなり⽴て込んでしまって景観も変わってしまったのですけど、当時は湘南の海が実家からも望むことができ、家の中を爽やかな海風が通り抜け、周囲には⽥園地帯が広がる⼤変
風光明媚な地でした。⻘⼭の名門⼩学校から⼀転して、まだ⼩さな漁村であった腰越周辺の⼦供たちが通う腰越⼩学校に転校しました。腰越、歴史に詳しい⽅ならご存知かもしれません。源頼朝が征夷⼤将軍として鎌倉幕府を開きましたが、その弟義経が兄に無断で京都守護職についてしまいましたよね。このことで頼朝は、義経が謀反を起こすのではと警戒するようになり、義経が鎌倉に帰還した時にこの腰越で⾜⽌めされてしまったのです。義経はここで兄に逆らうような意思がないことを⼿紙にしたためましたが、頼朝はこれを受け⼊れませんでした。この⽂が有名な義経の「腰越状」で今に残っています。⾜⽌めをされ、その後奥州平泉の藤原⽒の下で滅ぶまで義経の流浪の旅が始まるのです。おおっと、ここまで書いてきて⼈の歴史になってしまい⾃分の履歴を忘れてました。まあ義経と
⾃分を⼀緒に書くのもおこがましいので、⾃分史については次回述べたいと思います。