私の履歴書7

そんなわけで、⾼校時代は⺟校での思い出はあまりありません。⼀応野球部に所属しましたが、タバコの影響(!)もあったのか動くのが⼤儀となりショートからファーストに転向、準備運動のランニングも⼤嫌いでした。集団で、声出して、運動場を⾛り回る何てばかばかしいと思っていました。ただ、野球部の部室が校舎の裏側にあって、学校とは反対側を向いていて眺めがよかったんですね。友⼈は優等⽣ばかりだし、⼥の⼦の制服は可愛くないし(上下⿊のブレザーで⽩シャツだけなんですよ︕、今では許されないですよねえ)、昼休みは⼀⼈で部室に⾏って弁当を⾷べ、その後ゆったりと⼀服つけながら丘の上からの景⾊を睥睨し、夏⾍の声に⽿を傾け、下を⾛る東海道線の響きをゆったりと感じたりして幸せに過ごしていました。当然ながら成績が良いわけがありません。シンナーとタバコで
爆発しなかっただけよしとしなければなりません。特に物理が苦⼿で、単位からして全く理解できませんでした。下から数えて1/3位をいつも低迷していました。前回、中学時代の英語の先⽣の話を書きましたが、⾼校の時の英語の先⽣は⼤正デモクラシーの時代の総理⼤⾂、原敬(横浜の三溪園を作った⼈です)のお孫さんで、⼤変なお嬢様でした。とてもきれいで上品な⽅でしたが、私が予習していないのを⾒つけるとくいっとメガネを上げて、「松本さん、⽴ってらっしゃい」と叱られました。⾼校⽣にもなって教室で⽴たされるのかと呆れましたが、やはりそこは⼦供の時からのM癖が抜けておらず(以前ピアノの先⽣とのエピソードを書きましたよね)、わくわくぞくぞくしながら、みっともなく⽴っていました。それでも先⽣には可愛げがある⼦と映っていたようで、横浜市営バスの中からにっこりとほほ笑んで⼿を振っていただいたことをよく覚えております。実は、⺟⽅の祖⽗がメスの切れる外科医であり、⼦供の頃から往診鞄持ちでついて歩いていたことから、中学時代から医師になろうかなあと漠然と思っていたんです。乱れた⾼校⽣活を送りながらもその思いは変わることなく、進路指導の担任に話すと「ぜーたい無理だからあきらめろ」と何度も⾔われていました。今考えると、そりゃー当たり前だろと思えますけど、当時は幼児的な万能感でもあったのでしょうか、なんの根拠もなく、「そんなこと⾔うけど、そのうち⼊れるでしょ」なんて⼼の中で反論していたんです。本当、バカだったですね。でも皆さん、医学部なんて受験テクニックがあれば誰でも⼊れるわけで、本当に優秀な⼈は物理、数学をやっていたり、⼩説家や棋⼠にでもなっているわけですよ。私
がぐれていたのに医学部に⼊れたのを、「勉強もしないで医学部なんて、さぞかし頭がよかったんですね」なんて絶対に勘違いしないようにしてくださいね。医師資格なんて普通に勉強さえすれば取れるし、実際の仕事なんて真⾯目にやりさえすれば誰でもできますよ。頭良くなくて、無茶して失敗すると困るので、その保障が欲しい⼈は是非医者になってください。⼈のためになることは、確かにたくさんありますし、素質があればそこに喜びを⾒出すことはきっとできるでしょう。結局この⾼校は卒業式も⽋席して卒業(できました︕)、現役では数校の医学部にチャレンジして当然すべて⽟砕いたしました。

私の履歴書6

さて中学時代の成績なんですけど、これがなんと常に上位10位以内には⼊っておりました。以前に書いたH先⽣のおかげもあり、数学が得意でした。それと郷⼟史研究会のおかげで社会、歴史も得意になりました。⼤学卒業後、外国で10年以上にわたって⽣活していたおかげで、今でこそ英語には不⾃由しませんが、当時は苦⼿な⽅に⼊っていましたね。ただ、英語の先⽣(⼥性)が私のことを気に⼊ってくれて、他のクラスで「松本君は私の理想の男性です」なんてセクハラ発⾔をされていたので、その先⽣のことは⼤好きでした。男っていうのはセクハラをセクハラとは取らずに、かえって喜んでしまうところもあるんでしょうかね。もっともその当時、セクハラという⾔葉すら存在しなかったのですけど。おおらかな時代でした。勉強以外にも、なんと中学時代を通してスポーツ万能だったんですよ、皆さん、信じられないでしょう、私も同感です。野球はショートで4番、運動会では800mが得意、サッカーも部員以上にうまかったんですよ。校庭の端からから打ったホームランボールが、授業中の他のクラスの窓ガラスを直撃して⼤得意でありました。なので下級⽣、同級⽣をとわずに本当に⼥の⼦にはモテました、皆さん信じられないでしょう、私もです。しかーし、それに奢ることももなく、⼥⼦には⼀瞥もくれずに勉学と男⼦⽣徒とのガチンコ遊びに夢中でしたので、ますますモテました。⼀⼈と付き合えばそうはいきませんものね、そんな下⼼、うーんなかったともいえないかもですね。神奈川県は、皆さんもご存じのとおりの進学⾼だらけの県でしたから、もっともレベルの⾼い湘南⾼校にも⼊れたのではと思われましたが、少し安全圏ということで、横浜国⽴⼤学の付属⾼校になる予定であった県⽴光陵⾼校に進学いたしました。のちに付属⾼校になることが取りやめになり、⾼校の偏差値は急落しましたが、私が在学中は、東⼤10名、早慶合わせて100⼈以上、医学部も10名以上の進学率を誇っていました。と、そこまではよかったのですけど、友⼈も悪かったり家庭環境も影響したりしたのでしょうか、⾼校時代は完全にぐれてしまった⽣活を送りました。学⽣鞄はお湯で煮て、釣り糸で縛ってぺちゃんこに、教科書は学校に置きっぱなし、学⽣服は詰襟を⾼くし、丈を⻑くした「ヨウラン」(⽵の⼦族みたいなやつ)、喫煙は⾼校2年から、ついでに中学時代にプラモを作っていて⾃室に塗料⽤のシンナーが⼤量にあったので、ビニール袋にいれて吸っていました(アンパン、っていうやつです)。彼⼥は、同じ学校の⼥⼦はお⾼くとまっているので、やはりツッパリ系のM⾼校から選びまくりでした。相⼿も茶髪でスケバンスタイル、タイマンをはるときは必ず剃⼑を忍ばせているようなヤンキーねんちゃんが、気が置けなくて⼤好きでした。学校を素通りして、横浜駅のトイレで着替えてボーリングや映画によく⼀緒⾏きましたね。ナンパなんですけど、ツッパリ、楽しかったですよお。出席⽇数が⾜りず、毎年進学会議の常連でした。でも楽しかったですよお︕

私の履歴書5

すっかりご無沙汰いたしました。ようやくこれを再開する時間がとれました。といっても冬が⼤嫌いな私は、夏の間は遊び倒すことに決めているので、7⽉、8⽉の週末は全て外出三昧で時間を作ることも忘れていたというわけです。9⽉もまだまだ残暑が厳しいことを祈るばかりです(札幌では無理・・・)。さてSAMPの中井君を輩出した、ド⽥舎のボロ有名中学校、腰越中学に⼊学したわけですよね。⾃宅からは、丘を2回超えて30分くらい歩いて通っていました。それでも朝から鞄持ちゲームに興じたりしながらの通学でしたので、楽しい毎⽇ではありました。⼀学年はボロといっても⼀応⼈⼝密度の⾼い神奈川県のことですから、150名位であったかと記憶しています。最初の担任は、早稲⽥⼤学を卒業したばかりのO先⽣、⼤学では⼭岳部に所属されており、何かというと「森の
熊さん」を歌いだす純な⼭男でしたね。どうしても物事を斜に構えて⾒る癖のあった私には、全く相性が悪いものと思っていたのですが、先⽣はそんな私にも真正⾯から向き合ってその純真さをぶつけてくるので、私は照れながらもそれを受け⼊れざるを得ないことになりました。O先⽣は、社会科、歴史の先⽣でしたので、考古学にも詳しく、場所柄が歴史のある鎌倉でもあったことから郷⼟史研究会を⽴ち上げられ、その第⼀期のメンバーに私も加わったわけです。 ちなみに最近、⼀つ違いの弟がO先⽣に会い、挨拶したところ、なんども「出か︖いずるなのか︖」と⾔われて閉⼝したそうです(弟は守といいます)。それだけ私のことを可愛がってくれていたのですね。根暗、⽂系と思われがちな名前の研究会ですが、そこは⼭男の先⽣がリーダーであったこともありほとんどが鎌倉中を歩き
回るフィールドワークで、卒業までには鎌倉のガイドが務まるくらい神社仏閣、史跡や名物、鎌倉時代の切通し、武将の名前などを覚えるまでになりました。この知識は、後年⼥の⼦をデートを誘うのにたいそう役に⽴ちました。なにしろ、⽇帰りコース(もち休憩あり)、⼀泊コースなど瞬時に構築できてしまうのですから。中学に⼊ってから分かったことですけど、私が⼩学4年時に書いた江の島・鎌倉やその周辺の光景についての作⽂が、私に無断︕(担任の独断︕︕)で「かまくら⼦供風⼟記」に掲載されていたりと、やはり郷⼟に対する愛着が強かったのだと思います。お寺にお願いして、古仏のスケッチをしたり、鎌倉時代のやぐらや古い墓の拓本をとったり、時には他⼈様の畑を勝⼿に掘り起こして縄⽂⼟器の破⽚や⽮じりを⾒つけたりし、それらは皆、私の⼤切な宝物となりました。⼀部は神奈川県⽴博物館に今でも展⽰されています。古代といえば、この頃ホメロス抒情詩の中のイリアス戦記(ギリシャと今のトルコにあったトロイ古代国家間の争い)が⼤好きで、名だたる名将の名前や系譜をほとんど諳んじていました。アガメムノーン、デイオゲネス、アキレウス、ヘクトル、プリアモスなどなど、その出⾃に⾄るまで今でも覚えております。⽗親に反抗を始め、家庭が⾯⽩くなくなってきていた時期でもあり、⼀種の逃避であったのかもしれません。これから始まる壮絶な私の思春期を予想させる、無気味な(︖)予兆であったのでしょう。

私の履歴書4

しばらく間が空いてしまいましたが、履歴書4をお送りいたします。前回は腰越⼩学校4年までのことでしたね。さて無事5年⽣に進級できた(⼩学⽣で落第はないか)私でしたが、学業に専念するわけでなく、また素⾏がおさまるわけでもありませんでした。新しく担任となったO先⽣は、前の担任とは違ってバリバリの体育系、⽩⿊はっきりさせたい正義漢、⼤学で器械体操をやっていたとかで体育の時間になるとやたらとはりきり、全⾝⽩のジャージに⾝を固めて颯爽と跳び箱を披露するような⽅で、それを⾒ているとますます登校意欲がなくなるのでした(⾔ってはなんですけどだいたい嫌いなんです、こういった単細胞の⼈が)。いままで全く放任を気取っていた両親もさすがに焦ったのか、ちょうど近所にお住まいであった⾼校教師のH先⽣を⾒つけてきてくれました。⽗親がバス停で
知り会ったという⽅で、神奈川の名門横須賀⾼校の数学教師でした。ちょうど定年を迎えられたとのことで、私の家庭教師を引き受けてくださったとのことでした。確か半年⾜らずではあったと思いますが、週に1度、1-2時間だけ数学を教えていただきました。H先⽣は、公式を教えて単純に答えを⾒つけるような⽅法は⼀切とらず、最低限のヒントを与えては⾟抱強く私の解答を待つというやり⽅を⼀貫して⾏われました。私は、答え⽅が何通りでも考えられる、それよりも⾃分の頭で考えさせてくれる先⽣のやり⽅がいたく気に⼊っており、予習などは⼀切しないで先⽣との「数学問答」を楽しむことができました。先⽣とのお付き合いは本当に短いものでしたが、初めて勉強の⾯⽩さを教えてもらったおかげで5年の2学期以降は成績も⼀気に伸び、クラスで2-3番位につけるようになりました。あの頃は順位なんてつけてたんですね〜。⾃分でもこの変化には⼾惑いましたが、まあ周囲から褒められると悪い気もせずにせっせと勉学に励むようになりました。これに味をしめた両親は、ついでにありもしない⾳楽の才能を伸ばすと⾔い出し、5年、6年⽣時には⾳楽院に通わせてピアノを習い始めました。これは全く私の体質には合わなかったようで、ソナチネ位まではやれたのですが、⾒事に挫折。ただ楽しみだったのは、ピアノの先⽣がきれいな⽅であったこと、練習しないでゆくとピアノの横をたたいて叱られたことです。叱られるとその先⽣がますます美しく⾒えるので、わざと練習しないで⾏ったこともありました。これって・・・、Mでしょうか、やっぱり。先⽣が結婚して辞められると聞いた時には、寂しさと悔しさで⼤泣きして先⽣のお宅にまで押しかけ、⼀⽇中
粘っていました。これって・・・、ストーカーでしょうか、やっぱり。まあ初恋ってことにしておきましょう。成績が多少上がったとはいえ⽥舎の漁村の⼩学校ですから、卒業時には⼀応鎌倉・御成町にある横浜国⽴⼤学付属中学を受験した(させられた︖)のですが、⾒事に落第、やはり地元の腰越中学へと進みました。⼼の中では⼩学校時代からの仲間のいる、⼩汚いけれどat homeで気楽な中学に進むことを密かに喜んでいたのですけど。余談ですが、全く関係ないですが、SMAPの中居君はこの中学の後輩になります。考え⽅はまだ⼦供であり、夢は「プロ野球選⼿」としっかり卒業⽂集に書いていました。

私の履歴書3

⽇付が変わりました。前回は途中から話がずれてしまって申し訳ありません。腰越から脱線しましたね。さて腰越⼩学校4年⽣となったわけですが、私の素⾏は転校前とさほど変わったものではありませんでした。ただクラスでの溶け込みは早かったようで男⼥問わずに地元の⼦供たちとよく遊びました。同じように東京からの転校⽣もいましたが、なんだかすましているので気に⼊らなかったようです。幸い⾃宅から⾃転⾞を5分も⾶ばせば⽥んぼや⽤⽔路がありましたし、そこでは⼤きな網をみんなで上⼿に使ってドジョウ、タナゴ、ザリガニ、⼤きな⾷⽤ガエルのおたまじゃくし(10cm位ありました)などをよく取っていたものです。その脇の林に⼊って適当な⽊に⿊砂糖⽔を塗っておき、朝4時に⾏くとカブトムシやカナブンがたくさんとれました。なにしろ全ての⽣命を⾃宅にお持ち帰
りするものですから、飼うのも⼀苦労でしたし⾃宅の庭にはそれらのお墓が常にずらっと並んでいました。最近⺟から聞いたのですが、妹の勉強机の引き出しにかまきりの卵を⼊れておいて、⺟がなにげに開けたところ100匹近くのかまきりが⼀⻫に⾶び出してきたこともあったようです(私の記憶にはないのですが)。よく解釈すれば、現在の私の⽣命や⼈間への興味はその時に養われたのかもしれません。学校の成績は、4が2つ位ありましたけど、あいかわらず2はなく3のみが並んでいました。4のうちの⼀つは美術でした。担任のN先⽣は、もじゃもじゃ頭の芸術家で元来画家志望であったとのことで、なぜか伊勢海⽼の油絵しか描かない⼈でしたが、なんだか有名な展覧会にはよく⼊選していたようでよく⾃宅に遊びに⾏っていました。その影響もあって、ドラクロワやルノワールの絵画の模写をよくするようになり先⽣にはよく褒めていただき、以来絵を描くことが好きになったようです。危険なことは・・・、相変わらず好きで分譲地の⼀番上に⼤きな貯⽔タンクがあって柵を乗り越えてその上で寝ていたり、気に⼊らないやつがいると決闘と称して2時間位ずっと殴り合っていたりと⽣傷が絶えない、いつ死んでもおかしくない状態であったかもしれません。転機は5年⽣の半ばになるまで訪れませんでした(4に続く)。

私の履歴書2

お待たせしました。履歴書2をおおくり致します。⼩学校4年⽣の新学期から鎌倉に引っ越しました。鎌倉といっても⼋幡宮などのある鎌倉中⼼部ではなく、藤沢との境、⽚瀬江の島の近くです。当時は東京に住むサラリーマンが、通勤時間や満員電⾞をものともせず、家族のためにと⼀⼾建てを求めることがブームとなっており、鎌倉近郊の⼭の多くが削られて新興住宅地に変貌していました。私の⽗も御多分にもれずにその流⾏にのり、⾃分が後に腰痛で通勤が⼤変になるとは予想だにせず、⼩⾼い丘の上に広がった分譲地の⼀画を無理して購⼊して我々家族のために家を建ててくれたのでした。今はこの住宅地もかなり⽴て込んでしまって景観も変わってしまったのですけど、当時は湘南の海が実家からも望むことができ、家の中を爽やかな海風が通り抜け、周囲には⽥園地帯が広がる⼤変
風光明媚な地でした。⻘⼭の名門⼩学校から⼀転して、まだ⼩さな漁村であった腰越周辺の⼦供たちが通う腰越⼩学校に転校しました。腰越、歴史に詳しい⽅ならご存知かもしれません。源頼朝が征夷⼤将軍として鎌倉幕府を開きましたが、その弟義経が兄に無断で京都守護職についてしまいましたよね。このことで頼朝は、義経が謀反を起こすのではと警戒するようになり、義経が鎌倉に帰還した時にこの腰越で⾜⽌めされてしまったのです。義経はここで兄に逆らうような意思がないことを⼿紙にしたためましたが、頼朝はこれを受け⼊れませんでした。この⽂が有名な義経の「腰越状」で今に残っています。⾜⽌めをされ、その後奥州平泉の藤原⽒の下で滅ぶまで義経の流浪の旅が始まるのです。おおっと、ここまで書いてきて⼈の歴史になってしまい⾃分の履歴を忘れてました。まあ義経と
⾃分を⼀緒に書くのもおこがましいので、⾃分史については次回述べたいと思います。

私の履歴書1

すごいタイトルですよね。何か某新聞の連載みたいでしょ。今回から少し趣向を変えて私の今までのろくでもない⼈⽣を振り返ってみることにしました。何しろ失敗ばかりの事ですから恥ずかしいですが、皆様に少しでも親近感を持っていただければと思い始めることにします。また、皆さんと幾分でも何処かで接点があれば嬉しいです。まず出⽣の謎ですが、東京の慶応病院で誕⽣しました。お袋が産気づいた時、親⽗が酔っていてタクシーを呼ばなかったために、なんと病院の床に落ちたそうです。その時の衝撃はいまでも覚えています、なんてことはありません。⽗親の会社の社宅が渋⾕にあり⼩学校3年までをそこで過ごしました。⼩学校は、知る⼈ぞ知る⻘南⼩学校、⻘⼭にある屈指の名門校です。でも住所がそこなら誰でも⼊れました。⾃慢ではありませんが、3年間通して成績はall 3で2も4もありませんでした。物凄い悪たれで、低学年の⼦分が沢⼭おりいつも⻘⼭通りから表参道周辺に出没して悪事に⾝を任せる毎⽇でした。あの頃の表参道はまだ終戦の雰囲気を残しており、爆弾でできた⽳に⽔がたまってザリガニがいたり、こ汚い駄菓⼦屋が並んでいたり、渋⾕駅前ではいつも傷痍軍⼈がアコーディオンなんか弾いていたりと今では想像もつかない様相でした。⾃転⾞で表参道を滑降したり、駄菓⼦屋ではチョコを万引きしたり、まだたくさんいたセミやアゲハ蝶なんかを⽇暮れまで追いかけて過ごしました。危険なことが⼤好きでアパートのゴミ箱に⽕をつけたり、まだ珍しかった公衆電話のコードを意味もなく切ってみたり、⾛⾏している⾞の⾞輪めがけて⽯を投げるなどと極めて落ち着きのない⼦供でした。学校ではあまり元気もなく、隣の席の⼥の⼦にイジメられ不登校になったこともありますし、休み時間にも教室に⼊らずに⼀⼈登り棒にぶら下ったりしていたことを記憶しております。⼩学校3年になって現在実家のある鎌倉に引っ越したのですが、アパート引き渡し時に⾃宅の壁の落書きが余りに壮絶だったので管理⼈も唖然としていたとの事です。両親もよくまあそこまで私を放任していたものです。(2に続く)