私の履歴書1

すごいタイトルですよね。何か某新聞の連載みたいでしょ。今回から少し趣向を変えて私の今までのろくでもない⼈⽣を振り返ってみることにしました。何しろ失敗ばかりの事ですから恥ずかしいですが、皆様に少しでも親近感を持っていただければと思い始めることにします。また、皆さんと幾分でも何処かで接点があれば嬉しいです。まず出⽣の謎ですが、東京の慶応病院で誕⽣しました。お袋が産気づいた時、親⽗が酔っていてタクシーを呼ばなかったために、なんと病院の床に落ちたそうです。その時の衝撃はいまでも覚えています、なんてことはありません。⽗親の会社の社宅が渋⾕にあり⼩学校3年までをそこで過ごしました。⼩学校は、知る⼈ぞ知る⻘南⼩学校、⻘⼭にある屈指の名門校です。でも住所がそこなら誰でも⼊れました。⾃慢ではありませんが、3年間通して成績はall 3で2も4もありませんでした。物凄い悪たれで、低学年の⼦分が沢⼭おりいつも⻘⼭通りから表参道周辺に出没して悪事に⾝を任せる毎⽇でした。あの頃の表参道はまだ終戦の雰囲気を残しており、爆弾でできた⽳に⽔がたまってザリガニがいたり、こ汚い駄菓⼦屋が並んでいたり、渋⾕駅前ではいつも傷痍軍⼈がアコーディオンなんか弾いていたりと今では想像もつかない様相でした。⾃転⾞で表参道を滑降したり、駄菓⼦屋ではチョコを万引きしたり、まだたくさんいたセミやアゲハ蝶なんかを⽇暮れまで追いかけて過ごしました。危険なことが⼤好きでアパートのゴミ箱に⽕をつけたり、まだ珍しかった公衆電話のコードを意味もなく切ってみたり、⾛⾏している⾞の⾞輪めがけて⽯を投げるなどと極めて落ち着きのない⼦供でした。学校ではあまり元気もなく、隣の席の⼥の⼦にイジメられ不登校になったこともありますし、休み時間にも教室に⼊らずに⼀⼈登り棒にぶら下ったりしていたことを記憶しております。⼩学校3年になって現在実家のある鎌倉に引っ越したのですが、アパート引き渡し時に⾃宅の壁の落書きが余りに壮絶だったので管理⼈も唖然としていたとの事です。両親もよくまあそこまで私を放任していたものです。(2に続く)