日付が変わりました。前回は途中から話がずれてしまって申し訳ありません。腰越から脱線しましたね。さて腰越小学校4年生となったわけですが、私の素行は転校前とさほど変わったものではありませんでした。ただクラスでの溶け込みは早かったようで男女問わずに地元の子供たちとよく遊びました。同じように東京からの転校生もいましたが、なんだかすましているので気に入らなかったようです。幸い自宅から自転車を5分も飛ばせば田んぼや用水路がありましたし、そこでは大きな網をみんなで上手に使ってドジョウ、タナゴ、ザリガニ、大きな食用ガエルのおたまじゃくし(10cm位ありました)などをよく取っていたものです。その脇の林に入って適当な木に黒砂糖水を塗っておき、朝4時に行くとカブトムシやカナブンがたくさんとれました。なにしろ全ての生命を自宅にお持ち帰りするものですから、飼うのも一苦労でしたし自宅の庭にはそれらのお墓が常にずらっと並んでいました。最近母から聞いたのですが、妹の勉強机の引き出しにかまきりの卵を入れておいて、母がなにげに開けたところ100匹近くのかまきりが一斉に飛び出してきたこともあったようです(私の記憶にはないのですが)。よく解釈すれば、現在の私の生命や人間への興味はその時に養われたのかもしれません。学校の成績は、4が2つ位ありましたけど、あいかわらず2はなく3のみが並んでいました。4のうちの一つは美術でした。担任のN先生は、もじゃもじゃ頭の芸術家で元来画家志望であったとのことで、なぜか伊勢海老の油絵しか描かない人でしたが、なんだか有名な展覧会にはよく入選していたようでよく自宅に遊びに行っていました。その影響もあって、ドラクロワやルノワールの絵画の模写をよくするようになり先生にはよく褒めていただき、以来絵を描くことが好きになったようです。危険なことは・・・、相変わらず好きで分譲地の一番上に大きな貯水タンクがあって柵を乗り越えてその上で寝ていたり、気に入らないやつがいると決闘と称して2時間位ずっと殴り合っていたりと生傷が絶えない、いつ死んでもおかしくない状態であったかもしれません。転機は5年生の半ばになるまで訪れませんでした(4に続く)。