月別アーカイブ: 2015年5月

私の履歴書3

日付が変わりました。前回は途中から話がずれてしまって申し訳ありません。腰越から脱線しましたね。さて腰越小学校4年生となったわけですが、私の素行は転校前とさほど変わったものではありませんでした。ただクラスでの溶け込みは早かったようで男女問わずに地元の子供たちとよく遊びました。同じように東京からの転校生もいましたが、なんだかすましているので気に入らなかったようです。幸い自宅から自転車を5分も飛ばせば田んぼや用水路がありましたし、そこでは大きな網をみんなで上手に使ってドジョウ、タナゴ、ザリガニ、大きな食用ガエルのおたまじゃくし(10cm位ありました)などをよく取っていたものです。その脇の林に入って適当な木に黒砂糖水を塗っておき、朝4時に行くとカブトムシやカナブンがたくさんとれました。なにしろ全ての生命を自宅にお持ち帰りするものですから、飼うのも一苦労でしたし自宅の庭にはそれらのお墓が常にずらっと並んでいました。最近母から聞いたのですが、妹の勉強机の引き出しにかまきりの卵を入れておいて、母がなにげに開けたところ100匹近くのかまきりが一斉に飛び出してきたこともあったようです(私の記憶にはないのですが)。よく解釈すれば、現在の私の生命や人間への興味はその時に養われたのかもしれません。学校の成績は、4が2つ位ありましたけど、あいかわらず2はなく3のみが並んでいました。4のうちの一つは美術でした。担任のN先生は、もじゃもじゃ頭の芸術家で元来画家志望であったとのことで、なぜか伊勢海老の油絵しか描かない人でしたが、なんだか有名な展覧会にはよく入選していたようでよく自宅に遊びに行っていました。その影響もあって、ドラクロワやルノワールの絵画の模写をよくするようになり先生にはよく褒めていただき、以来絵を描くことが好きになったようです。危険なことは・・・、相変わらず好きで分譲地の一番上に大きな貯水タンクがあって柵を乗り越えてその上で寝ていたり、気に入らないやつがいると決闘と称して2時間位ずっと殴り合っていたりと生傷が絶えない、いつ死んでもおかしくない状態であったかもしれません。転機は5年生の半ばになるまで訪れませんでした(4に続く)。

 

私の履歴書2

お待たせしました。履歴書2をおおくり致します。小学校4年生の新学期から鎌倉に引っ越しました。鎌倉といっても八幡宮などのある鎌倉中心部ではなく、藤沢との境、片瀬江の島の近くです。当時は東京に住むサラリーマンが、通勤時間や満員電車をものともせず、家族のためにと一戸建てを求めることがブームとなっており、鎌倉近郊の山の多くが削られて新興住宅地に変貌していました。私の父も御多分にもれずにその流行にのり、自分が後に腰痛で通勤が大変になるとは予想だにせず、小高い丘の上に広がった分譲地の一画を無理して購入して我々家族のために家を建ててくれたのでした。今はこの住宅地もかなり立て込んでしまって景観も変わってしまったのですけど、当時は湘南の海が実家からも望むことができ、家の中を爽やかな海風が通り抜け、周囲には田園地帯が広がる大変風光明媚な地でした。青山の名門小学校から一転して、まだ小さな漁村であった腰越周辺の子供たちが通う腰越小学校に転校しました。腰越、歴史に詳しい方ならご存知かもしれません。源頼朝が征夷大将軍として鎌倉幕府を開きましたが、その弟義経が兄に無断で京都守護職についてしまいましたよね。このことで頼朝は、義経が謀反を起こすのではと警戒するようになり、義経が鎌倉に帰還した時にこの腰越で足止めされてしまったのです。義経はここで兄に逆らうような意思がないことを手紙にしたためましたが、頼朝はこれを受け入れませんでした。この文が有名な義経の「腰越状」で今に残っています。足止めをされ、その後奥州平泉の藤原氏の下で滅ぶまで義経の流浪の旅が始まるのです。おおっと、ここまで書いてきて人の歴史になってしまい自分の履歴を忘れてました。まあ義経と自分を一緒に書くのもおこがましいので、自分史については次回述べたいと思います。

私の履歴書1

すごいタイトルですよね。何か某新聞の連載みたいでしょ。今回から少し趣向を変えて私の今までのろくでもない人生を振り返ってみることにしました。何しろ失敗ばかりの事ですから恥ずかしいですが、皆様に少しでも親近感を持っていただければと思い始めることにします。また、皆さんと幾分でも何処かで接点があれば嬉しいです。まず出生の謎ですが、東京の慶応病院で誕生しました。お袋が産気づいた時、親父が酔っていてタクシーを呼ばなかったために、なんと病院の床に落ちたそうです。その時の衝撃はいまでも覚えています、なんてことはありません。父親の会社の社宅が渋谷にあり小学校3年までをそこで過ごしました。小学校は、知る人ぞ知る青南小学校、青山にある屈指の名門校です。でも住所がそこなら誰でも入れました。自慢ではありませんが、3年間通して成績はall 3で2も4もありませんでした。物凄い悪たれで、低学年の子分が沢山おりいつも青山通りから表参道周辺に出没して悪事に身を任せる毎日でした。あの頃の表参道はまだ終戦の雰囲気を残しており、爆弾でできた穴に水がたまってザリガニがいたり、こ汚い駄菓子屋が並んでいたり、渋谷駅前ではいつも傷痍軍人がアコーディオンなんか弾いていたりと今では想像もつかない様相でした。自転車で表参道を滑降したり、駄菓子屋ではチョコを万引きしたり、まだたくさんいたセミやアゲハ蝶なんかを日暮れまで追いかけて過ごしました。危険なことが大好きでアパートのゴミ箱に火をつけたり、まだ珍しかった公衆電話のコードを意味もなく切ってみたり、走行している車の車輪めがけて石を投げるなどと極めて落ち着きのない子供でした。学校ではあまり元気もなく、隣の席の女の子にイジメられ不登校になったこともありますし、休み時間にも教室に入らずに一人登り棒にぶら下ったりしていたことを記憶しております。小学校3年になって現在実家のある鎌倉に引っ越したのですが、アパート引き渡し時に自宅の壁の落書きが余りに壮絶だったので管理人も唖然としていたとの事です。両親もよくまあそこまで私を放任していたものです。(2に続く)

時効性製剤(デポ剤)

前回の勉強会では時効性製剤(デポ剤)についてのお話がありました。あまり聞きなれない方もおられると思いますので今回のテーマとして取り上げました。デポ剤とは、2週ないし1か月に一度だけ筋肉内に注射することでその効果が一般の服薬と同等に持続するものです。現在までに最近多用される非定型抗精神病薬としては2剤、そして今週さらに1剤が追加されます。これらはリスペリドン(リスパダール)、パリペリドン(インベエガ)、アリピプラゾール(エビリファイ)で、全て統合失調症の薬です。以前から定型抗精神病薬(第一世代とも呼ばれ、少し古い薬)でのデポ剤は存在していましたが、副作用の点で問題もあり、またこのような薬物を患者さんに無理やり投薬して管理してしまうのは人権的に問題があるのではなどの偏見があり、一時この剤型はすたれかけていました。しかし、統合失調症の患者さんの中には病識に乏しく、副作用を嫌がり、またきちんと服薬することが病気のため困難であるという方達が多くいて、それらの問題を改善するデポ剤が再発予防に有効であることがわかってきました。また患者さんの中には、社会復帰も目指しておられる方もおり、そのような方には、日中服薬しないでいられて仕事やプライベートな生活を充実させることのできるという面でデポ剤は有用であると思います。さらに言えば、デポ剤への切り替えで副作用も軽減でき、症状のさらなる改善が得られる患者さんが多くいることも確かです。おそらくデポ剤投与後の薬剤の血中濃度が安定していることが大きな要因でしょう。私も病院勤務医時代から、多くの患者さんがデポ剤によってよりよい生活を送れるようになることを経験してきました。上記のお薬を服薬しているが、なかなか症状コントロールが、社会生活がうまくゆかない患者さんは一度ご相談いただければと思います。

19時から勉強会です

グランドホテルにきています。これから21時ま統合失調症の勉強です。眠いですが頑張りたいと思います。内容は次回アップしますのでみてください。

ピカソ、エッチング

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ピカソの女の横顔。線描の天才といわれるピカソは、最小限の線で最大の質感とvolumeを出しています。私の癒し、観音様かマリア様です。本来は6枚綴りの中の一つですが、いつまでも見ていて飽きない一品です。待合室に出しています。

 

頭文字D

imageこのアニメ好きな人多いですね。私も学生時代はよく峠を攻めていました。トレノに勝ったことが自慢です。最後はガソリンタンクに穴があいて廃車になりました。よく生きてたものです。

マチス

imageこれが最近きたマチスのダンス、リトグラフです。診察室においてますので見て行ってください。1910年の作品、すごく大胆で躍動感がありますよ。

TV出演中

時々STVのどさんこワイドなんかに出演しています。この時は太りすぎでした。いまは6階のクリニックまで毎日階段昇降して少ししまってきました。軽い筋トレでも結構効くものですよ。

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